靖国で会えましたか?

【はじめに】
お盆休みも終わり、今日からお仕事という方も多いと思います。コロナによる移動制限と、何府県もに同時に「特別警報」が出されるような大雨で、お休みどころではなかった方々もおられるかと思います。被災された方の一日も早い復興をお祈りするとともに、たとえ平穏無事であってもこれからは何をするにも、「安全第一」を心がけて過ごしましょう。

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お盆=働く人の夏休みという認識が一般的ではありますが、お盆は、本来亡くなったご先祖様が「あの世」から「この世」に戻ってこられ、しばらく滞在された後、また「あの世」に戻って行かれる期間です。
京都では本日16日は、小豆のご飯を炊いて小さな「おむすび」にし、ハスの葉に乗せそこに「ご先祖様」も乗っていただき、お墓までお送りに行く。
京都の夏の風物詩である五山の送り火は、そのお墓に戻った「ご先祖さま」が更に「あの世」に無事還って行かれるために灯す送り火です。
本日のお話は、お盆にまつわる私のおうちの物語です。

私の実家は、まぁまぁたくさんの「ご先祖さま」をお送りしなければいけないのですが、その中に「アキラ」さんという方がいらっしゃいます。
曾祖母が産んだ6人兄弟の末っ子だった「アキラ」さんは、長男が他家の跡取りになり、次男が早世したため、跡取りとなりました。

昭和19年、そのきゃしゃで「男前」だった「アキラ」さんに丙種合格で招集令状が来ました。
丙種合格とは現役には適さないが、国民兵にはなれる、といったものでした。
家族も本人も戦争に行くとは全く思っていなかったため、大慌てで、お向かいのお家の縁続きの方と婚礼を済ませた「アキラ」さんは、その年の12月、地元の駅で白い割烹着を着た国防婦人会の方々に「万歳三唱」のもと見送られ、駐屯地のある呉に向かいました。お嫁さんとも言えないような数日間しか過ごしていない女性と、母「おエイ」と妹たちを残して。

「おエイ」はこの時、駅までは行かず家の門前で末息子「アキラ」にこう言ったそうです。

「ここで、わかれるけれどお前は死ぬことならん」。

この「おエイ」の言葉は、白い割烹着で駅に向かう国防婦人会の方がたまたま門の外で立ち聞きし、後日私の母に教えて下さり、私は母から聞きました。

子供を兵隊として戦争に出して初めて「母として一人前」、そんな風潮が蔓延するご時世に、駅まで見送りにもいかず、死ぬことならん=生きて帰ってこいという曾祖母は「非国民」のそしりを受けることも覚悟していたでしょう。

昭和20年3月、私の母「ヨシエ」と二つ違いの兄「ヒロカズ」はその曾祖母たちが住む家に子供たちだけで疎開生活を始めました。

中学生だった「ヒロカズ」と小学生の「ヨシエ」たちの存在は、女性ばかりで暮らしていた曾祖母宅で格好の労働力だったようです。畑仕事やおさんどん、区単位の勤労奉仕に駆り出されはしたものの、食べ物には困らない日々だったと言います。

そんな昭和20年7月のある日、家族みながお風呂に入り、家の外に床几をだして夕涼みをしていた時、誰もいない離れの呼び鈴がなったそうです。その呼び鈴は「アキラ」さんがお客様が来てもすぐわかるようにと、商売をしていた離れの引き戸に取り付けたものでした。もちろん離れをみても誰もおらず、その日はネズミの仕業?かなと言いながら寝たそうです。

それから間もなく「アキラ」さんの戦死広報届きました。

丙種合格だった「アキラ」さんをのせた軍艦はフィリピンへ向かう途中の沖合で沈んだそうです。
その直後に終戦を迎えます。

終戦からしばらくたち、当局から遺骨を渡すので迎えにこいとの連絡が入り、たった一人山本家の血を引く男子となっ
た当時中学生の「ヒロカズ」が遺骨を迎えに行きました。

「ヒロカズ」が受け取った遺骨が入った白木の箱は首から下げるとカラカラと音がし、家に帰って開けてみると中には石がひとつ入っていたそうです。

「おエイ」はその還ってきた遺骨でお葬式をあげました。

そして、誰が言うともなく、7月のあの夜、離れの呼び鈴を鳴らしたのは「アキラ」さんで、「アキラ」さんは「おエイ」さんとの約束を果たそうと家に還って来たのだと家族の皆が納得するようになりました。

多くの日本軍の方々が「靖国で会おう」を合言葉に戦禍にのまれ、尊い命を散らされました。そのことの良しあしや意味付けするものでは一切ありません。ただ、靖国ではなく母の元に還ることを選択した魂もあったということ、そして戦争へ向かう道と戦争そのものが多くの悲劇を生む道であり、戦死された方だけではなく、広く周辺の家族~親族の心にも深い傷を負わせるものであるということを知って頂ければと思います。

今、「アキラ」さんのお墓は、共同墓地の一角にある軍人墓に建立されています。両隣をみるとほとんどの方が昭和20年になって亡くなっていることがわかります。

戦後76年、遺族と言ってもその方の直系親族が残っていらっしゃることも難しい時代になりました。

私も母とあと何回、「おしょらいさん」をお送りに共同墓地を訪れることが出来るでしょうか?

墓地を前に母が「76年たってもなんにも還ってこなかったし、やっぱり死んではってんな~」とつぶやきました。

母も、そして当局から渡された「白い石」を遺骨として扱って葬式をあげた曾祖母も本当は「アキラ」さんは生きて戻ってくるという微かな希望をずーっと抱いていたことを、その時知りました。


ビジョンを同じくする人としか繋がれない

何年も苦楽を共にしたはずなのにもう二度と会うことのない方々もいらっしゃれば、出会って、その一瞬で意気投合する方々もいらっしゃいます。
それは、互いにビジョンのあるもの同士だからこそ。
安易に毎日を過ごしていると、出会えない方々と出会えること。
それもやはり、今平和の中で暮らせているからこそ、ですね。


最後までお読みいただきありがとうございました。
今回は、お盆の最終日ということで、私の原価族の「ものがたり」を紹介させて頂きました。特別なお話、ではなく、このようなお話は、日本中いたるところにあるでしょう。
戦争体験を風化させない、悲劇を繰り返さない、とはいえ、過去は風化します。
それでいいのです。

大切なことは、世界の今ここで起こっていることに対して「想像力」を働かせて、感じ、考えることです。このお話がその想像力を働かせるヒントになれば幸いです。

よろしければ、こちらに(y-dance@isis.ocn.ne.jp) 感想などお寄せください。

この夏は、自分に対し少し大きめの「夏休みの課題」を課しました。
縁あってお出合いする企業の方々一社一社と誠実なお付き合いをさせて頂くために、自分の課題を粛々と取り組んでおります。

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